お知らせ
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打たれしにこだはり夜半(よは)を目ざめつつ
冷えて流るる涙を拭かず
紅ひきて少しは心和みたり眠り足らはずたゆき朝に
わが貌(かほ)の如何に老けしか
過ぎし日に親しき人はふりむかざりき
打たれしに、との言葉を選んではいますが、実際には父に殴られた母でした。母が菊作りの先生か菊作り仲間(男性)と楽しくお喋りをしていたからとかいうあまりにも馬鹿げた理由からでした。今でもあの時の青く腫れた母の顔を思い出すと、可哀想でなりません。父が生きていたなら、私がこの歌を掲載することに大反対したでしょうが、その父も亡くなり4年が経ちます。母が36歳の時の作品です。
ひとときの平安にして目覚むればかへる悲しみ抱きて眠る
眠れずに明けし一日は目つむれば暗きに沈む心地に耐ふる
今日は悲しい歌ばかりを集めました。これはそれぞれ、母が37歳と46歳の時の作品です。どんなつらい出来事が他にもあったのか、私にはもうわかりません。
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応(こた)へなき姑(はは)に向ひて姑の子ら
こもごも己(おの)が名をいふあはれ
衰(おとろ)へて眠れる姑が唐突に亡き舅(ちち)呼ぶをまじまじと見き
朝暗き部屋を点して冷えそめし姑の死顔を剃りてととのふ
永病みし姑の柩に朝夕にみがきてやりし入歯も納む
年永く歩めず逝きし姑の脚細々として足裏うすし
年永く病みたる故に姑のお骨灰多くして抱けばかろし
祖母が危篤状態に陥る前、何日も高熱が続いたように記憶しています。このとき母は36歳、私は中学二年生で、夏休みの間の出来事でした。
二句目のことは今も良く覚えています。意識が無いように見えた祖母が、突然目を開けて祖父のことをはっきりと呼んだので、母はとても驚いたと言っていました。
祖母が亡くなくなったのは夜中のことでしたので、兄も私も眠ってしまっていたのですが、何年も後になってから母が私達に、「あのとき、夜中でもお前達を起こせばよかった、ひとが死ぬということはこういうことなのだよと見せるべきであったかもしれない」と言ったことがありました。
祖母の葬儀が終わった頃に今度は母の具合が悪くなり、なぜか私も同じ状態になったのですが、二人で1週間も寝込むことになります。
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色淡く花開きをり地下街の明りに茄子(なす)の苗は売られて
遮断機の上るを待てば踏切の隙間に出でてたんぽぽは咲く
一句目、野菜の苗のようなものが太陽の光及ばぬ地下街で売られていたことが印象的だったようです。茄子の苗が地下街で売られててねぇ、と母が私に言ったのをよく覚えています。でも、どこでの話だったのか・・・新潟駅だったような気もします。
二句目は、東京で一人暮らしをしていた私の所に母が訪ねて来た時だったように思います。私は当時、小田急線沿線に住んでいたのですが、その最寄駅の踏切だったのでしょう。一旦遮断機が下りると、上り下りの電車が続くのでなかなか開かない踏切なのに、それでもたんぽぽが咲いているのを見て母が、こんな、場所も無い所にねぇ、と言ったのを覚えています。
母が44歳、私が22歳の時のことでした。
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